Apple創始者・スティーヴ・ジョブスの伝説のスピーチ

2008年08月02日 12:21

Apple創始者・スティーヴ・ジョブスの伝説のスピーチ

仕事には情熱が必要だ。


人材の未来に投資する“勝ち戦の論理”

2008年08月02日 11:56

人材の未来に投資する“勝ち戦の論理”
樹研工業 社長 松浦元男 氏 Innovator File No.10
株式会社 樹研工業
代表取締役社長 松浦元男 氏
Matsuuraa Motoo

<インタビュー>
日本LCA 知識開発室  高田晋治、高橋現

 2002年、世界初となる100万分の1gの超小型歯車を開発した、射出成形メーカーの「樹研工業」。微細加工の分野で世界中から一気に注目を集めた。しかし、歯車の使途を問われると、「分からん」、松浦元男社長は応える。先の見えない基礎研究に何億円もの資金を投じられる資本力こそが、同社の強みであり、社長の節制の賜物だ。

 投資の裏づけとなるのは、社員との信頼関係。最高級のマシンを付与された社員は、手探りで未知の世界を切り開き、自らの力で市場価値を高める。マーケットでの発言力をつけ、付加価値の高い仕事をし、内部留保に貢献する。この好循環を、松浦社長は“勝ち戦の論理”と言う。多くの部品メーカーが業績不振に喘ぐ中、世界中のメーカーから取引要請が引きも切らない。


●不確実性の高い“人”という存在を信用する

―― 「百万分の一の歯車!」(中経出版)、「先着順採用、会議自由参加で世界一の小企業をつくった」(講談社)など、昨年は、立て続けにご著書を出版され、話題を呼びましたが、これは、いまや、優秀な部品メーカーの技術力こそが、最終製品の差別化要因となっていることの証左だと思います。だから、この先行き不透明な時代に、読者は松浦社長の意見を求めようとする。ただ、ご著書の内容を読ませていただくと、松浦社長の主張は実にシンプルで、結局、成功の秘訣は「人づくり」に尽きるということですね。世界初となる100万分の1グラムの歯車の開発も、いまは、その話題性とは裏腹に、現時点では用途がなく海のものとも山のものともつかない状態だということですが、“世界初”を実現したことによって、開発者自身の市場価値が高まり、マーケットでの発言力が増し、ひいては御社の業績向上にも結びついていると。

松浦   そうですね。言ってしまえば、これまで、ほとんどの企業が、基礎研究を疎かにしてきた、ということです。“応用”と言えば聞こえはいいですが、二匹目のドジョウばかりをねらってきて、独自の開発体制を構築できなくなり、「ドジョウがいなくなった」とあたふたしている。それこそ、海のものとも山のものともつかない研究開発にまい進させるということは、研究者をとことん信頼しなければならないということなんですよ。しかし、ほとんどの経営者は、それとは逆に、“生産性”という旗印の下、不確実性の高い“人”という存在を、信用せず、統制管理しようっていう考え方をしてきた。でも、それでは、社長の発想を打ち破るようなイノベーションが起こらないわけですよ。社員の創造性を生かそうとするなら、不確実性こそ可能性だと考え、人材の未来に投資するスタンスに転換しなければならない。大事なのは、会社にそうしたスタンスがあるのかないのか、ということです。

―― それはどういうところに表れるんですか。

松浦  会社のサイフの中身を見れば一発でわかります。要するに内部留保ですよね。日ごろから地道に内部留保をしているかどうかが、資本準備金の額に表れてくる。ここにこそ、経営者が未来への投資にどれだけ信念を持っているか、が表れてくる。だって内部留保に努めれば、倹約や納税で、経営者の懐はちっとも豊かにならないんだから、会社が自分の所有物で、社員はコストだと考えているような人には、とてもできることではありません。優良な企業は、漏れなく、資本準備金を潤沢にし、新たな分野に挑む優秀な社員に、いい環境を与えている。要するに、人事は財務の問題と切り離せないわけです。逆にそれを切り離して考えるからおかしなことになる。

 スキルやノウハウは、言うまでもなく人に蓄積されます。しかし、それは資産価値として帳簿上に現れないし、即利益に結びつくものでもない。だから、現場をよく知らない経営者には、その価値が見えてこないんですよ。本来なら、人事部門などがそうした無形資産の価値を示してあげなければならないのに、そんなノウハウはない。経営者は、見えないから不安になって、短視眼的な収益の拡大に社員を駆り立てることになる。P/L(損益計算書)に基づいて経営計画を立て、売上目標やコスト削減目標の実現のために、人材を管理するという意識になるわけです。

 だけど、そんな計画に社員を当てはめていけば、社員はこれまでの事業の延長線上でしか物を考えられなくなるから、新規の事業が生まれなくなり、発展性がなくなるし、普段から創造性を発揮できないから社員のモチベーションは下がる。また、そもそも、売上目標や利益目標といった計画自体が絵に描いた餅にすぎないから、高い確率で計画の狂いが生じる。計画の狂いをまたP/Lで調整しようとすると、コストダウンのために人的なリストラをせざるを得なくなり、社員のモラールが低下する。と、まあ、そんな悪循環に陥りがちになるわけです。

―― 最近では、リストラによって業績がV字回復した企業を、株主やメディアがこぞって評価する傾向が定着している。

松浦  僕は、そんな業績回復は粉飾決算と変わらないと思っています。だって、何の経営努力をすることもなく、社員に責任を押し付けて済ませているだけなんですから。当社は、そんな企業とは取引しません。そんな企業の発展に力を貸したくもないし、多くの場合、縮小均衡で見通しも暗いだろうから、巻き添えも食らいたくないですしね。

●節制して貯めた資金で、最高級のマシンを与える

―― ご著書でも、経営者の役割は、社員がチャンスとモチベーションを取り込めるような環境を提供することだとお書きになっておられましたが、これは具体的にどういうことですか。
樹研工業 社長 松浦元男 氏

松浦  それは、当社で言えば、技術者に最先端で最高級のマシンを与えてやることです。例えば、昨年には、ナノという単位で金属(金型)を加工するための工場を建設しましたが、周辺の道路から伝わる振動の影響をゼロにする免震構造や、工場内の温度を±0.001℃に抑えるクリーンルームを備え、そこに一ナノの単位で制御できる五軸制御のマシニングセンターを入れることで、総額3億4000〜5000万円の投資をしました。

 これも現状では、用途が未定で、言わば基礎研究用の設備投資なんですが、とにかく最高のグレードのものを入れ、オプションも全てつけました。社員は購入にあたって、「ちょっとこのオプションもったいないな」とか言ってたんですが、冗談じゃない。最高の機械を使おうと思ってたら、そんなもの遠慮してたらダメだと。ちゃんと使おうと思ったら、ちゃんとオプションを入れろって。刃物でも、超硬にすれば安いもんですよ。でも最高に削ろうと思ったら、やっぱりダイヤモンド。最低30万円。ちょっと良い物になると、60万〜90万円になる。社員は「どうしましょうか」って。そんなもんダイヤモンドに決まってる、という一言でダイヤモンドにする。で、工場は工場でインチキしないで完璧なものをつくる。

 そうすると、豊田工機の技術部長さんなんかが来られて、「うらやましい」っていうわけですよ。その瞬間、うちの担当者が、上場企業の技術者の羨望の的になる。そうすると、担当者はバーンと爆発しちゃうわけね。やる気をおこすわけですよ。まあ別に他人からの評価を受けるかどうかは大した問題ではありませんが、最高の道具をもって、最高の機械の前に立ったら、やっぱり気持ちが違いますよ。これは僕がピアノを弾くからわかるんです。

―― 大学時代、ダンスホールのバンドマンとして活躍されたとか。

松浦  ええ。トロンボーンやピアノをやって生活費を稼いでいました。そのころ、先輩から言われたんです。「弘法は筆を択ばずというけれど、俺たちは選ばなきゃだめだ」って。世界に数台しかない特別なピアノを与えられれば、神聖な気持ちになって、それに見合った作品を作ろうという気持ちになりますよ。何よりピアノを弾くこと自体が楽しくなって、弾いて弾いて、何とかしてピアノのレベルに追いつこうと考える。でも、そんな燃えたぎる気持ちを秘めている人間に、「お前、それは贅沢だよ。お前ならこの程度でいいんじゃないの?」って言って、三流品を与えたら、気持ちが萎えますよね。

―― 会社がその人物をどう評価してるかが、そういう場面に表れる。そんな中で、社長が、日ごろから節制して貯めたお金を、自分たちが利用するマシンに惜しみなく投入してくれたら、やはり意気に感じますよね。

松浦 そりゃあもう、彼らも燃えたぎる血潮でぶつかっていくわね。そんな士気の高さで、他社が持っていない高級な機械に向き合えば、世界初の技術も生まれるんですよ。だけど、社長が高いゴルフ会員権買って、それで損したらしいっていう噂が出たり、会社にゴルフバックが置いてあって、その中に入ってる道具は何十万とか何百万とか、そのくせハンデは30だとか、そんな話ばっかりじゃ、そりゃ若い子もついてこないと思うよ。

●チャンスとモチベーションの論理

―― 松浦社長が「どんな人間でもモチベートできる」とおっしゃる意味は、そういうところにある。

松浦  そうそう。やっぱり皆やる気あるもんね。全く生きる意欲がないなんて、そんなやつ初めから入ってこないよ。会社に来たいっていうからには、やる気があるんだよ。まず受け入れ側の社長に、自分の会社を選んでくれたことに感謝する気持ちがなかったら、最初の第一歩から分かり合えないね。金髪でピアスをしてようが、どんな格好をしてようが、その家のお父さんお母さんからしたら、大事な息子や娘だもんね。それを大事に受け取ってあげるっていうのは、ごく当たり前のことでしょう。大事に受け取って、大事にすれば、それは人それぞれタイミングは違うにせよ、みんな素直にサーッと伸びていくよ。

―― だから先着順採用でいいと。

松浦  ええ。大体、面接をやったって、人間の本質を10分程度で見抜けるわけがないんだよ。実際、うちで若手のホープと言われている人材が入社したばかりのころ、「今回ばかりは失敗したか」と僕は採用を後悔しました。いま、社内では「天才」とまで言われ、誰からも頼りにされています。でも、そのときは全くわからなかった。だから、当社を志望する気持ちがあれば、もうそれで十分だと思っています。

―― 松浦社長や、岡野工業の岡野雅行社長など、技術力に定評のある会社のトップが、部品会社の蔑称でもある“下請け”という言葉に対抗して、“上請け”という言葉を使って来られましたが、要するに、このチャンスとモチベーションの論理で、大企業に買い叩かれず利幅の稼げる技術が開発できるということですよね。そして、その利益をまた地道に内部留保し、社員に投資する。そういう良好なサイクルが築けていると。
樹研工業 社長 松浦元男 氏

松浦  そう。その好循環が構築できるかどうか、が成否を分けるポイントなんですよ。目先の数字にとらわれている経営者ほど、そこに気づかない。たとえば、かつてITバブルに乗って一世を風靡したドットコム会社の社長や、国際的な事業展開をしたスーパーの社長などが、倒産した後、コンサルタントとして活躍している情報が、様々なメディアで報道されていますが、彼らが話している内容を見ても、自分たちの失敗した原因をあまり理解していないんですよね。自らに責を求めているのはいいんだけど、結局、小手先のマーケティング戦略の話とかに終始しているんですよ。敗因の分析自体が間違っているわけです。

 確かに失敗の原因の一端はそこにあったかもしれないけど、それを改善したところで、企業が存続できるわけではない。自分が立ち上げた事業が下火になったとき、なぜ、社員から次なるアイデアが出てこなかったか、そこを考えるべきなんです。そもそも、会社の利益を上げて、倹約をして、税金を払う。そして、資本金を増やして社員に投資する。そんなサイクルをつくることを、彼らが成功と考えるかどうかの問題もありますがね。負け戦の将は、勝ち戦の論理を全く理解しようとしないのが世の常なんです。

―― 経営者とは、すべてを背負いながら、金銭的に得るものは少ない、割に合わない役割だと。

松浦   それでいいんですよ。会社は、社員の安心の拠り所でなければならない。そうあり続ける仕組みをつくれれば成功なんですよ。本当に会社の存続を望むなら、企業の将来のためにできるだけ多額の投資をしたいと思うでしょう。そう思えば、役員賞与はやめて、税引き利益をできるだけ社外に出さないようにする。経営者は、十分な報酬をもらっても、貯金して増資を行うか、実質資本金勘定として働くように自社に預けるでしょう。そのまま自分の懐に入れてしまったら、その分、イノベーションの可能性が低くなるわけですからね。21世紀はマイクロ技術、ナノ技術が重要といっても、財務という裏づけがなくては何もできません。他の業界でもそれは同じです。

 それなら、日本は税金も高いし、海外に移転した方がいいのではないか、という声もあるでしょう。しかし、僕は自分を一人前に育ててくれた豊橋という町に恩返ししなければならない。町の一つの機能として、できるだけ多くの地元人材を受け入れて育成し、活用する。そしてキッチリと利益を上げ、税金を納める。この前提だけは崩したくないんです。そもそも、企業経営なんて、そのための手段にすぎないわけですから、割に合うも合わないもありません。税金というハンディがあるなら、それを乗り越えるために何をすればいいか。それを全社員で考え抜く。そこにイノベーションが生まれる。その感動がなければ、いくらお金があっても経営者なんてやってられませんよ。それこそ、割に合わないじゃないですか(笑)。


聞き手から

 金16、銀9、銅12。アテネ五輪で、日本選手団は、史上最多となる37個のメダルを獲得した。そんなオリンピック選手の活躍を引き合いに出しながら、取材中、「うちの若いのも、僕らが若いころと比べると、はるかに飲み込みが早いんだわ」と松浦社長が目を細めた。そして、スポーツ選手も部品メーカーの職人も同様、勘の良さは世代に起因すると言った。この場合の若い世代とは、20代の人間のことであるが、松浦社長が世代論として語ろうとしたのは、若い世代の方が、成熟社会の洗練された価値観を持っているということである。

 彼らは、団塊の世代のように、周囲と協調し、物質的な豊かさを追求することに重きを置くのではなく、我が道を行き、自分の成長を実感する充足感に価値を置く。だから、一旦、のめり込んだら、日々の積み重ねに飽きることなく、鍛錬を楽しみ、スピーディーに技術を身に付けてしまう。それがいまの20代の優秀さに結びついているというわけである。

 そうしたジェネレーションギャップを考慮せず、協調性を重視する過去の価値観でふるいにかけると、いい人材を取りこぼす可能性が高い。だから、変なフィルターを通さずに、先着順で採用すればいいんだ、というのが、松浦社長の持論だ。しかし、多くの経営者は、いまだ、「会社のすべてを管理しなければならない」という強迫観念にかられ、自分が容易に理解できる人間ばかりを社内に集めがちである。だが、そうすると、経営者の器以上に企業が伸びないのは明白だ。

 「お前は俺と違うから価値があるんだ」と、辞めようとする部下を引き止めたソニーの故・盛田昭夫氏の言葉は名言だが、経営者なら誰しも、他者との差別化を図ってきた経験があるはずだ。自らの存在価値を創造してきた歴史があり、そのことの意味もよく理解しているはずである。そうした草創期を思い出し、過去の自分に似た異質なイノベーターに関心を示すことが、創造性の高い組織に変貌するための第一歩になる。業績不振に悩む部品メーカーが多い中、世界中の大企業から取引要請が引きも切らない樹研工業の姿こそが、説得力を持ち、その成功の味を物語っている。(文責:高田晋治)


【松浦元男氏(まつうら・もとお)氏 プロフィール】

1935年、名古屋市生まれ。小学生で松江市に疎開、地元の高校を中退し、名古屋に出て仕事を転々とする。豊橋の高校に復学。アルバイト先の社長の援助で、愛知大学法経学部に入学。バンドマンをしながら、大学卒業。5年間のモーレツ社員を経て、1965年、樹研工業設立、代表取締役に就任。いまや極小精密部品ではトップメーカー。2002年には、世界最小となる100万分の1の歯車を開発し、業界の話題となった。

■株式会社 樹研工業  http://www.juken.com/

(仕事探求サイト イノヴェーティブONE より転機)

感動を呼ぶ教育法 カワン・スタント氏

2008年04月08日 23:15

カワン・スタント氏の感動教育とは 


「(日本では大学卒業者も含め、定職を持たない『フリーター』の数が内閣府調べ
では4百万人に上がっています)

 懸命に働かなくても暮らせる豊かな国なので、親や社会が若者を甘やかしている
面があります。しかし、それ以上に私は、若者をそうさせる、日本の高等教育
のあり方が問題だと思います。
 学歴尊重の風土の中で、人々はいまだに大学を出ないと将来がないと思っている。
だが、実際には日本の大学教師は学生の8割の面倒を見られない。相手にされ
ない学生は何も身につけられず、卒業後は望む会社にも入れず、無気力にになる。
これがフリーターを生む温床だと思います。

 (雇用制度などより日本の大学教育に問題があると。)

 私がかって勤めた神奈川県の新設私立大学では、教師は超一流の大学出身者ばか
りです。一方で学生の偏差値は低く、学生の8割は授業が理解できません。教
師は2割しか相手にせず、残りは社会に出ても邪魔者にされるのです。

 私はもともと電子工学を専攻しました。その研究に医療がからんできたので、医
学も学んだ。すると医療の課題でも一つの分野を勉強するだけでは出にくいア
イデアが次々と浮かんできました。偏差値だけで人間は分からない。工学の発
想から潜在能力を引き出す方法もあるはずだと。

 そこで、教育に関しては全く素人だったのですが、2割のできる子を育てようと
いう日本の昨今の常識と反対に8割の学生にやる気を起してやろうと考えました。
講義の目的をはっきり示し、私の授業をしっかり聞けば君はこの科目分野で
一人前になれると学生に約束した。その代わり学生には遅刻や私語は許しません。
大人同士の約束です。その結果、互いに真剣になれました。学生も私が真面目
に教えてくれると感動し、実際に成果があがりました。


 (大切なのは感動を引き起こすことなのですね。)

 オリンピックで日本選手が活躍しましたね。コーチと選手が一体になって努力し、
その成果が人々の喝采を受ける。すると選手にも感動が生まれ、いっそう前へ
進みたくなる。いまの日本の高等教育に一番欠けている点です。
 目標は何も金メダルや世界一である必要はない。入学時に偏差値の低い学生も授
業で目指した小さな目標を達成して自信をつければ、次へのやる気を出してく
れます。

 (政府はフリーター対策に乗り出しています。)

 小手先の対象療法では効果は大いに疑問があります。それよりも一瞬で人を変え
るような、感動を呼ぶ教育法を考えた方がよい。もっとも私の専門分野で言うと、
現在の脳医学で感動の起きる仕組みはまだ解明されていない。新たな興味深い
テーマです。」

 《スタント氏のひと言:『外国人の私が必要なほど、大学はやる気を引き出すの
に困っている。』》
〜以上。

 【聞き手から】
「フリーターに代表される日本の若者の無気力。その責任を豊かな社会や雇用制度
のせいにして逃げる日本の教師たちへの強烈な反論だ。電子工学、医学、薬学
など幅広い知識の応用と熱意で教育現場を活性化した自信が発言の背景にある。
初来日から20年余り。日本社会を知り尽くした上での観察は一考に価する。
(編集委員 小牧利寿)


 *今昔注記:『観察は一考に価する』のではなくて、大学教師たち全員に、反省
させ、意識改革を求めるべき問題だと私は、思います。『法科大学院など専門
職大学院』が次々に生まれるようになってきている今、メデイア自体その編集
者や記者達も、政府(内閣や文部科学省など)の怠慢を含め、もっと踏み込ん
で、大学当局や教師たちの責任を、厳しく、問うようにしてほしい。

<以下は、今朝の日経・朝刊:インタビュー《領空侵犯》『フリーター対策では遅
い』(2004.09.06(月))からの引用>

*カワン・スタント氏:1951年インドネシア生まれ。82年東京農工大電子工学部
卒後、東工大、東北大など四大学で工、医など四博士号を取得〜米国留学など
を経て2004年から現職。超音波医学、感性工学など学際的分野で幅広い実績。

感動教育―スタント効果で学生の「やる気」をよみがえらせる

2008年04月08日 23:01

カワン・スタント(Ken Kawan Soetanto)氏

早稲田大学国際教養学術院教授
早稲田大学臨床教育科学研究所所長
感動教育―スタント効果で
学生の「やる気」をよみがえらせる


■工学、医学、薬学、教育学の4つの分野で博士号を取得

 私は1974年に、大学進学のために日本に来て、工学博士と医学博士を取り、最近になってさらに薬学博士、教育学博士を取得しました。もともと医用工学という学際的な領域からスタートしたこともあって、異なる領域へと興味を広げてきたのは自然な流れでした。理工学では人の健康のための機械についての研究、医学では臨床に医療機械を結びつける研究、さらに検査だけでなく治療に結びつけるために、薬学の視点から超音波造影剤の研究と発明を行いました。超音波造影剤では日本で数十、米国で2つの基本特許を保有しています。

 最後の教育学が、それまでの3つの博士号とは少し違っています。1993年、私はアメリカでの研究生活に別れを告げ、日本の新興の私立大学である桐蔭横浜大学の教壇に立つことになりました。当時、日本全国に多くの新しい大学ができていました。しかし、そこに入学してくる学生たちには、勉強するという意欲がありませんでした。大学とは、学問を修める場所であり、学問とは、学び、そして問うことなのに、そこには、高校と変わらない「学習」があるだけでした。

 キャンパスは、「やる気のない」学生であふれていました。そして、教師の側も、それを黙って見逃していました。そんな日本の大学の教壇に、私が立つことになりました。しかし、インドネシアから出てきて、ひたすら学問を求めてきた「私」には、我慢がならなかったのです。全体の8割にも上るであろう、できない学生、やる気を見せない学生を、このまま放置しておいていいのか。私の挑戦が始まりました。そして、桐蔭横浜大学に赴任してから今日まで、心を育てる教育や感動教育を実施してきました。教育も研究課題として考え、研究と教育を両立できるように心がけてきました。その実践の中で、教員が変われば学生が変わる。さらに、学校も変わるということもわかりました。

 4つめの博士号は、こうした私自身の日本での教育体験を「IOC(Interactive Operation Control)教育法」として理論化したものです。ひと言でいえば、どうしたら学生をやる気にさせる講義ができるのか、どんな教育が学生の意欲や熱意を駆り立てるのかについての研究です。私にとって人文・社会の分野で博士号を取ることは、大変なことでした。しかし、独自の教育論が評価されて本学の教員となり、これから教育学と脳科学を結びつける新しい研究領域に挑戦したいと意欲を燃やしています。

 学者として狭い領域を掘り下げることも重要ですが、加えて社会的変化を追いかけることができれば、やりがいが増します。さらには、誰でもできるようなことではなく、新しい分野のパイオニアとしてリーダーシップを取っていくことができれば、幸せも倍増です。その点では、途中ちょっと働き過ぎ、無理をし過ぎの時もありましたが、とても幸せな人生を送ってきたと思います。

 日本に来る前、母国のインドネシアでは、高校生の頃から兄の電子機器及びその部品の商社を手伝っていました。ちょうど高校1年生のときに9・30 事件という、スカルノ大統領政権下での共産勢力によるクーデター未遂事件が起こり、華人の高校が閉鎖になって学校へ行くことができなくなったのです。兄の会社では、香港などで買い付けた医療用製品を国内で卸していました。兄よりも経営の才覚があったようで、私の決断がどんどん当たって、会社は順調に大きくなりました。

 会社の手伝いと同時に、学校へ行けない子どもたちの家庭を訪ねて、ボランティアで家庭教師をする活動も行っていました。インドネシアでは、小学校を出ることすらままならない子どもがたくさんいます。その中で、ある家族のことが心に残っています。母親が難産で亡くなったため、6人の子どもと酒浸りで乱暴な父親とで暮らしている家族で、食事のお金もなく、子どもたちもそれぞれ日銭稼ぎに忙しく、勉強どころではありません。私はまったく邪魔者扱いで、家にも上げてもらえませんでした。しかしあるとき、ようやく家に上がることができるようになって、子どもたちと一緒に家事をやったり、水汲みに行ったり、洗濯をしたり、とても強い戦闘凧を作ってあげたりしました。

 その家は電灯が60Wしかなく、家の中は薄暗い。しかしよく目をこらして見ると、部屋の壁は叩き潰された蚊の血痕のついた死骸でいっぱいでした。ある日、私は自分でお金を出して、安い石灰を買ってきて色を混ぜて壁をきれいにペイントしました。少しでも子どもたちの気分転換になればいいと思ったのです。これで父親の態度がぐっと変わりました。ついに、「おまえなら、子どもは任す」と言われました。子どもたちも「お父さんが変わった!」と目の色を変えて叫びました。

 じつはそのお父さんは、昔は学校の先生だったのです。だから、私の前に来た家庭教師たちの態度が、本音でぶつかってくるものではなかったために、父親には気に入らなかったのです。でも、どんな人とでも誠実に向き合えば、必ず気持ちは通じます。この時の本音でぶつかっていった体験が、その後の私の教育への姿勢につながっています。

 その一方で、インドネシアの高校に入り直して、再び勉強も始めました。当時、電子・電気工学分野に興味があったのですが、インドネシアには専門の学校がありません。英語の本を海外から取り寄せて独学で勉強し、さらに友人たちを集めて教えたりもしました。インドネシアでは、高額な切手を狙って本の小包がよく盗まれるのですが、私の注文した本もなかなか届かないことがありました。仕方がないので、闇市へ行って盗まれた本を探し出し、それを値切って買い戻してくるなど、大変な思いをしました。これが私の理工学の勉強の始まりです。

 まもなく、日本の大学へ行って工学を本格的に学びたいと考えるようになりました。ふつう華人は、欧米の大学へ留学することが多いのですが、私は当時の日本の電機メーカーの優秀さに引かれて、日本で技術を学びたいと考えていました。兄は「せっかく会社が儲かってきたのに、留学なんてとんでもない」と猛反対でした。しかし、どうしても勉強したかったので、なんとか説得しました。外国人が日本で永住することは難しいということは、家族も皆知っていましたから、「まあ、そのうち帰ってくるだろう」と許してくれたのです。そして1年間分の貯金を持って日本へ渡りました。
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■米国での準教授職を経て再び日本へ戻り、独自の教育手法、スタント・メソッドの確立へ

 日本ではまず日本語の勉強をしてから、人より8歳遅れて、26歳で東京農工大学に入りました。その後、東工大の大学院に進み、医用工学の研究で工学博士号を取得しました。しかし、博士号を取ったくらいでは日本では職には就けません。そこで発奮して、さらに東北大学の大学院に進んで医学博士号を取りました。しかし、2つめの博士号を取っても、依然として仕事はありません。やはり、日本で研究職を見つけるのは難しいだろうと考え、米国の学会で自分の研究を発表したところ、すぐに超音波医療診断装置の分野で第一人者だった教授から声をかけられ、米国の大学で職を得ることができました。Drexel 大学とThomas Jefferson 大学で準教授職に就き、米国NIH(国立衛生研究所)から1億円以上の研究助成金を受けるなど、順調な学者生活を送っていました。

 そんな時、「日本に戻って来ないか」という話が舞い込んできました。日本へ戻るのには複雑な思いがありましたが、懐かしさがそれに勝りました。結局、米国での教授職の話を断り、1993年に日本に戻って、私立大学の桐蔭横浜大学(当時は桐蔭学園横浜大学)に着任しました。ここで、日本で初めて医用工学科という専攻を立ち上げ、当時の文部省から15億円もの助成金を受けて、先端医用工学センターの設置を実現しました。その一方で、学生教育ではのちに「スタント・メソッド」と呼ばれる独自の教育手法を確立します。

 私の講義では、授業には7割以上出席すること、10分以上講義に遅れたら入室禁止、私語は厳禁などのルールを学生に課しました。いくら試験で高い点数を取っても、これらのルールが守れなければ不合格です。さらに授業で使う資料類はすべて英語、講義後半に行う演習とテストも英語にしました。その代わり私は学生たちに、「私はあなたたちにとって重要なことを、興味を持って学べるよう講義します。私の講義を1年間受ければ、あなたたちがエンジニアの卵、研究者の卵として、自信を持って将来に望めるようになることを約束します。」と宣言しました。

 この約束を果たすのは、私自身にとっても大変厳しいことです。いかに自分の講義を、学生たちにとって魅力的なものにするか。それも1回、2回ではなく、 10回、15回と継続しなければなりません。高校までの50分の講義ですら、学生にとっては長いし退屈だと感じられてきたのですから、大学の90分の講義を面白く感じてもらうのは、並大抵のことではありません。電子工学などの理工系の基礎を教えながらも、例えば、学生にとってためになる雑談や教訓のような話を混ぜていきます。それもただ面白ければいいのではなく、学生たちの心を動かし、脳裏に長く残るような話でなければなりません。

 結果からいえば、学生たちは私の期待に見事に応えてくれました。次第に「スタントの講義は面白いし、ためになる。何より自分にもやれるという気が湧いてくる」と評判が広がり、2年目でかなりの手応えがありました。学生の潜在パワーを引き出す私のやり方は、いつのまにか「スタント効果」といわれるようになりました。学生たちからの感想文を読むと、いかに意識が変わったか、自信に目覚めたかが、手に取るようにわかります。

 例えばある学生は、次のように書いています。「私の体の奥底に何か熱いものがこみ上げてきて体の震えが止まりませんでした。その瞬間まだ間に合う、今なら生まれ変われる、変わりたい、もう自分に劣等感を感じたくない、と強く思いました」。この学生は、かつて医者になることが夢だったが、もうそんな夢はとっくにあきらめていたのです。しかし、私の専門が医用工学であり、工学博士を取ったあとに医学博士を取ったということを知り、「自分にももしかしたら…」という希望がよみがえってきたのです。私の教育者としての仕事は、こうした学生に夢をあきらめさせない、「やればできる」ということを気づかせることなのです。

 先ほどの感想文の学生は、のちに私の研究室に所属することになりましたが、私は超音波造影剤の研究の重要な部分を彼に任せ、さらには特許の申請書も書かせました。試行錯誤しながらも、彼は立派にやり遂げました。ともかく任せる、自分で考えさせるということが大事なのです。そのことがやる気につながり、やればできるという自信につながります。

 結局、これまでの日本の甘すぎるやり方が、「楽な方法でいい」という悪習慣に学生たちを染めてしまい、彼らをダメにしてきたのです。今、必要なのは、彼らの意識を変える教育です。努力なしに得られるものがある社会なんてあり得ないという厳しい事実を、しっかり受け止めてもらう必要があります。「僕は君たちを信じている。だから頑張ってほしい」という思いを投げて、失っていた自信を取り戻し、自分を取り巻く環境に立ち向かう感性を培うことが大切です。

 桐蔭横浜大学には9年間いましたが、7年連続で、最優秀研究者と最優秀教育者の両方に選ばれました。博士も出しましたし、東工大をはじめ一流大学の博士後期課程に何人も卒業生を送り出しました。こうした評判を聞いて、私の研究室に来るために留年して待つという研究室浪人まで生まれたほどです。日本の大学では、優秀な学者は研究が第一、教育は二の次でいいという考え方が根強くあります。しかし、私は両方が大切だと思います。

 その後、働き過ぎで体調を崩してしまい、しばらく休養していました。とはいえ、どうもじっと休んではいられない性格で、その間にこれまでの超音波造影剤の研究をベースとして、東京理科大学で薬学博士を取得しました。続けて、10年にわたるスタント・メソッドの実践をベースに、2003年7月に早稲田大学で教育学博士を取得しました。これと前後して、2003年1月から本学の国際教養学部の客員教授に招聘され、2003年9月1日から正式に教授となりました。
(早稲田大学研究者紹介WEBマガジンより)
http://www.waseda.jp/rps/webzine/back_number/vol013/vol013.html


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Vol. 13
Touching education -
Reviving student motivation with the Soetanto Effect
Ken Kawan Soetanto

Professor, Faculty of International Liberal Studies
Director, Clinical Education and Science Research Institute
- Four doctorates: engineering, medicine, pharmacy and pedagogy
I first came to Japan in 1974 as a university student, and received doctorates in engineering and medicine. Recently I also obtained doctorates in pharmacy and pedagogy. Since my original field of study was medical engineering, which is an interdisciplinary field, it was natural for me to extend my area of interest. I did science and engineering research on health-related machines, and subsequently pursued clinical medicine studies of medical machinery. I extended the scope of my studies of medical machines from use in checkups to use in medical treatment, and in the course of my pharmaceutical research I invented an ultrasonic contrast agent which received dozens of basic patents in Japan and two in the U.S.A.

 My last PhD, in pedagogy, is different in nature from other three. In 1993, I ended my research life in the U.S.A., and decided to teach at Toin University of Yokohama, a newly established private university in Japan. At that time, a number of new universities were being established throughout Japan. It seemed to me then that the university students had little motivation to study. University should be a place where students eagerly pursue their studies, actively learning and questioning, but what I saw was the same passive study I had seen in Japanese high schools.
  The campus was full of students devoid of enthusiasm. In addition, teachers turned a blind eye to the situation. I started teaching in that kind of scenario but I was unable to find satisfaction; I had left Indonesia for the single-minded pursuit of my studies. How could I accept such unmotivated, incapable students, accounting for some 80% of the entire university enrolment? I took this as a challenge. Ever since I started teaching at Toin University of Yokohama, I have been creating activities to develop the students' spirit and to inspire them to seek an education. I took up education as one of my research areas, and I have been trying to achieve quality research and effective education simultaneously. Through my practice, I came to understand that if the teachers improve, the students will change and inevitably the school itself will be transformed.

 In my fourth PhD I worked to create a theory based on my teaching experience in Japan: the IOC (Interactive Operation Control) teaching method. Put simply, the research is about how to give lectures that motivate students and what sort of education generates motivation and enthusiasm. This was a difficult study, but my education theory was recognized, and I was offered a position at Waseda University. Now I am eager to take on the challenge of a new research field, the conjunction of pedagogy and brain science.
 It is important for a scholar to delve deeply into a narrow field, but it would be beneficial if that study were linked to social issues at the same time. Furthermore, it would be even more valuable if that research could provide leadership in a new field, rather than following in the path of existing research. As I look back on my past, although there were some times when I worked too much and took it too seriously, I think my life has been a happy one.
Before I came to Japan, in my home country, Indonesia, I helped my elder brother in his trading company from the time I was a high school student. The company was dealing in electronic devices and parts. I worked there because my Chinese high school closed during an abortive communist coup attempt (the 9.30 Incident in 1965 against the Sukarno regime). I was a first year high school student then. My brother's company bought medical goods in foreign countries such as Hong Kong and sold them wholesale in Indonesia. I seem to have had natural management skill, and as my decisions brought success, the company grew steadily.
At the same time that I was helping with the company, I was engaged in volunteer activity as a home tutor for children who could not go to school. In Indonesia there are many children who cannot finish even elementary school. Among them, I still remember one family vividly: the mother had died during childbirth, and the six children were living with the father, who was prone to heavy drinking and violence in the home. As there was no money even for food, all the children were busy trying to subsist, and had no time at all to study. I was just a nuisance to them and they would not even let me into their house. However, I finally worked my way into their lives by helping them with household chores such as cleaning, fetching water and washing, and by making fighting kites to amuse them.
The house had only 60 watt lighting and was always dim inside. One day when I was peering at the walls inside the house, I found that they were covered with hundreds of dead mosquitoes and blood. I spent my own money to buy some cheap lime, mixed it with some coloring and painted the walls nicely to brighten the children's lives a little. When the father saw this, his attitude dramatically changed, and finally he told me, "I feel I can trust you with my children." The children were also surprised, shouting, "Hey, our dad has changed!"
It turned out that the father had been a teacher some years before. He did not like any of the home tutors who came to their house before me because they were not sincere enough to show their real motives. I believe that if you face somebody with sincerity, you can surely communicate with and relate to the person. My experience of facing the family sincerely in those days led to my approach to education.
Meanwhile, I entered an Indonesian high school and resumed my studies. I was interested in electronic and electrical engineering but there was no specialized school at that time, so I ordered English books and studied independently. I sometimes brought my friends together and taught them too. In Indonesia, books in the post are often stolen because of the valuable postal stamps on them. I often did not receive my orders. As a last resort, I would go to the black market to find my stolen books, and had to buy them a second time. That was a hard experience, but it was the beginning of my study of science and engineering.
Shortly after that, I started to think I'd like to study engineering seriously, at a Japanese university. Usually Chinese-Indonesian students go to university in Europe or the United States, but I was attracted to the excellence of Japanese electric-appliance makers at that time and wanted to learn technology in Japan. My elder brother strongly objected, saying, "There is no way you can study abroad now, when the company has just started making a profit." However, I managed to convince him that I really wanted to study. My family allowed me to leave because they all knew that it is difficult for foreigners to stay permanently in Japan, so they expected that I would be back shortly. I arrived in Japan with one years' savings.

- Associate professor in the U.S.A., then establishing the Soetanto Method in Japan
When I arrived in Japan, I first studied Japanese and then entered Tokyo University of Agriculture and Technology. I was 26, 8 years older than my fellow students. I went on to the graduate school of Tokyo Institute of Technology and received a doctorate in medical engineering. However, it is difficult to embark on a research career in Japan with only one PhD, so I studied for a doctorate in medicine at the graduate school of Tohoku University. Even with two PhDs, however, I still could not find a career opportunity. Having encountered a barrier in Japan, I presented my research at an academic conference in the U.S.A. Immediately a professor who was a leading authority on ultrasound medical diagnosis equipment in the U.S.A. offered me a position there. Thus began my research life, working as associate professor at Drexel University and Thomas Jefferson University, receiving a National Institute of Health research grant of more than 1 million dollars.
In the meantime, an offer from Japan came out of the blue. Although I had complicated feelings about going back to Japan, my sense of nostalgia won out; I declined a professorship in the U.S.A. and came back to Japan in 1993, taking a position at Toin University of Yokohama (then Toin Gakuen University of Yokohama). I created the Department of Medical Engineering, the first one in Japan, and established the Center for Advanced Research in Biomedical Engineering with a 1.5 billion yen subsidy from the Ministry of Education, as it was called at the time. Later, working in education, I established an original educational methodology, which was later called the Soetanto Method.
In my classes, I made rules such as "Students must attend more than 70% of classes", "Students cannot enter the classroom if they are more than 10 minutes late", and "Talking in class is strictly prohibited." Even if students got high scores on the exams, they would fail if they did not abide by my rules. In addition, the study materials for the class were all in English, as were the exercises and tests in the second half of the course. To motivate my students I said, "I will teach things important to you in a way that will interest you. If you take my class for a year, I promise that you will be confident in the future as a prospective engineer or researcher."
To keep such promises was very hard. How could I make my class attractive to students? Such a class cannot be a once or twice affair, but must be continuous. Even 50-minute high school classes are too long and too boring for the students, so it is indeed not an easy matter to get students interested in 90-minute university classes. So, while teaching the basics of science and technology such as electronic engineering, I added anecdotes and insights that seemed to be useful for them. Such talks should not only be interesting; they should also touch the students' hearts and stay with them.
The students responded very well. Comments such as "Soetanto's classes are interesting and useful and above all, they give me confidence," gradually spread, and I got profound results in my second year. My way of bringing out students' potential started to be called the Soetanto Effect. Reading the students' impressions, it is clear that their awareness and confidence increased.

For example, one student wrote, "Something very warm welled up deep inside of me and I could not stop my body from shaking. At that moment I was overwhelmed by a strong impression that it was not too late, I could be reborn: I wanted to change and I did not want to have an inferiority complex any more." This student had had a dream of becoming a medical doctor but had given it up a long time before I met him. However, when he found out that my specialty was medical engineering and that after getting a PhD in engineering I had gotten a PhD in medicine, his hopes for such a career began to revive. My job as an educator is to encourage students not to give up their dreams, and to make them aware that they can achieve those dreams if they try.
That student later entered my laboratory, and I entrusted an important part of my ultrasonic contrast agent research to him, and I let him to fill out the patent application form himself. It is important to give students opportunities and to make them think. This will develop their motivation and lead to a feeling of confidence that they can succeed if they try.
In the end, the traditional Japanese soft approach has led students to think that 'the easier the better" and has spoiled them. What is necessary now is an education that changes their outlook. It is essential for them to understand that a society where people can get things without making effort is not possible. If teachers convey the message, "I believe in you, so I want you to do everything you can," the students will be able to retrieve their lost confidence and cultivate their ability to face their environment.
I worked for Toin University of Yokohama for nine years and was chosen best researcher and best educator seven years in a row. Some of my students received PhDs, and a number of them proceeded to doctoral programs in leading universities such as Tokyo Institute of Technology. Some students, hearing of my reputation, decided to repeat a year in school, waiting for their turn to study in my laboratory. There is a deep-rooted thinking in Japanese universities that research must come first and education second. However, I believe they are equally important.
During that time, I damaged my health with overwork and had to take rest for a while. Nevertheless, my nature did not let me lie back; while recovering I earned a PhD in pharmacology at Tokyo University of Science, based on my previous research on ultrasonic contrast agents. Following that, I received a PhD in pedagogy from Waseda University based on my past ten years of practice of the Soetanto Method. I was invited to join the Faculty of International Liberal Studies at Waseda University as a visiting professor in January 2003, and became a full-time professor in September 2003.

http://www.waseda.jp/rps/en/webzine/no13/no13.html

孔子とドラッガー

2008年03月20日 20:25


孔子とドラッガー

本書は、孔子とドラッカーばかりではない、多くの登場人物がいる。武田信玄、織田信長などの戦国の武将たち、あるいは表題の二人より登場回数の多い安岡正篤、中村天風。他にヘレン・ケラーの、もし三日間だけ見ることが出来たら何を見たいかも紹介。



孔子とドラッガー

著者略歴  一条 真也
1963年、福岡県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。つねに「人間の幸福とは何か」について考え、大手冠婚葬祭会社の代表取締役のかたわら、塾を主宰し、作家活動にも情熱を注いでいる


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